いつの間にか師走に入っていた。

近年稀にみる、予定調和ではなかったこの1年。

走馬灯のように駆け抜けていった。

とりあえず今は無事に年を明かしたい。

 

そんなこんなでこの一ヵ月、さまざまな瞬間に思い馳せた私の様子↓

昔は「普通」「まとも」に擦り合わせようとしていたが、年齢を重ねる毎に当たり障りのない奴つまらんなぁって感じるし、そもそも私みたいな奴がまともな筈ないだろう。お前の目は節穴か。

 

推しって身近な存在ではなく、偶像崇拝に近い存在を「推し」と表現するものだと思っていたんだが、昨今は「気になる人」「好きな人」を「推し」と表現するんだな。

「好きな人」だと重いが「推し」と表現するとライトになるから、ある意味保険的な言葉に聞こえる。

 

善意なんだから全てを肯定的に受け止めなさいという考えはまるで過保護、過干渉の毒親みたい。

与える側が100%善意だったとしても、受け取った側が嫌悪を感じるならそれは毒だろう。

 

怒り、悲しみを詳しく口頭で伝えようとしても、聞き手には「あぁそんなこと」と言われてしまったり、笑い話にされる時。

その状況に陥った自分の体感と雰囲気はその場にいない人には伝わりづらい。

ニュアンスの食い違いはある。

 

他人の悩みや不安の波に触れると過去の自分と重ねてしまう。

良いも悪いも好きも嫌いも感情の振り幅が大きく揺れ動く若さを眩しく感じるようになった。老いたなぁ。

 

社会人という枠に飛び込んだ若い頃、みんなやる気あんのすげぇな…と思っていたけど、社会人でやる気ある人なんて希少価値。

周囲に帳尻合わすため、自分の価値を証明するため、生活のためにやる気あるように見せている。

フリが上手いだけという気づき。

 

ありがとうもごめんなさいも言うタイミングを逃すと残留思念のように囚われるから、なるべく口に出すようにしている。

年々素直になってきている気がする。

 

一番欲しくなかったものを自引きしたり、割引の条件対象外で損したり、苦手な食べ物を注文してしまうという散々な日がある。

なんて日だッ!と思っても、まぁそんな日もあるよね…と気持ちの処理をするぐらいには大らかな性格。

そんな私に幸あれ、と思わないと自分が保てない日だってある。

 

見た目じゃ問題が見当たらないような人が優先席に座っているのを「大問題」として晒すような人って、相手の見掛けだけでしか人を判断していない浅はかさと思考力の低さが露見してる。

 

生きづらいだとかしんどいとかの時期も通り越して、なんかもう人生に飽きてきた。

昔の人が寿命が短い理由がわかる。

人間はそこまで長く在る必要がない。

 

子どものやりたいことをサポートしていたり、肯定的に見守る親御さんをみると、そりゃ子どもは伸び伸びやれるよなぁ…

頭ごなしに否定したり、不安を煽ったりしない親って意外と少ない。

「自分の人生に子どもがいる」のではなく「子どもの人生に親がいる」という言葉を見かけ感銘を受けた。子どもいないけど。

 

 

よいお年を(気が早い)